家族と出会いなおす時間です
私たちは、患者さん一人ひとりの「生きたい」という思いに寄り添い、
在宅医療を通し人生そのものをサポートしております。
「大切な家族と過ごしたい」
「思い出のあの場所へ行きたい」
「大好きな食べ物が食べたい」。
そんな患者さんのちょっとした夢は、生きる力に繋がります。
訪問診療の中で出会った、一日一日を大切に生きる患者さんとそのご家族のエピソードをご紹介します。
私たちは、患者さん一人ひとりの「生きたい」という思いに寄り添い、
在宅医療を通し人生そのものをサポートしております。
「大切な家族と過ごしたい」
「思い出のあの場所へ行きたい」
「大好きな食べ物が食べたい」。
そんな患者さんのちょっとした夢は、生きる力に繋がります。
訪問診療の中で出会った、一日一日を大切に生きる患者さんとそのご家族のエピソードをご紹介します。
ある朝病院から電話がかかってきました。
「白血病でDICを起こしています。もう数日しか生きられません。
でも家に帰りたいと希望しています。今日退院してもいいですか?」
当診療所は了承して、お昼に病院に向かいました。
退院する時にみんなで記念撮影しました。
病院スタッフも、家族も、そしてAさんも、
これが最後の退院と知りながら笑顔で写真を撮りました。
退院を見送った後、大泣きする看護師がたくさんいました。
退院後4日間という貴重な時間。
Aさんは通勤で使った岐阜駅に行くことができました。
「随分来ないうちに駅も変わったな~、スターバックスができている。
妻と一緒に駅に来るのは何年ぶりだろう」(Aさん)
そして4日後、Aさんは昇天されました。
1カ月後、Aさんの奥さんに会いました。
「自宅に戻った時間があるから、今を生きることができます。息子(19歳)も娘(15歳)も4日間のおかげでとても成長しました」
血液内科の医師はこう振り返りました。
「15年血液内科の医師をしてきたが、血液疾患の患者さんは最初から最後まで病院でしか診れないと思っていた。でも今は違うことがよく分かった。
“患者さんが希望したら家に帰ることができる”とわかるまで、15年かかった…」
Bさんと7歳の娘さん、旦那さんの3人暮らしのご家族でした。
娘さんはお母さんが具合が悪いことを感じている様子。
Bさんは「娘と一緒にいたい」「家でゆっくり過ごしたい」という想いがあります。
そこで退院前にみんなで話し合いました。
○ 娘さんにガンのことをどう説明したらいいだろう?
○ 娘さんは目の前でお母さんが亡くなることに耐えられるかな?
退院後2週間、在宅医療に移ってから、
家族みんなで大事な時間を一緒に過ごせました。
「娘が学校に行く前に『いってらっしゃい』と言えるのが嬉しいです。
母親の役割を最近できなかったから…」とBさん。
調子がいい時には娘さんと一緒にアサガオの観察をしました。
そして、娘さん、旦那さん、お母さんに見守られながら静かに息を引き取りました。
娘さんはそばでずっと手を握っていました。
ある日家族から電話がかかってきました。
「病院では食べられないから胃ろうにしなさいと言われました。
でもお母さんが可哀想です。一度家に連れてきてもいいですか?」
シティ・タワー診療所「いいですよ。なんとかしましょう」
家に帰ると、Cさんに、かぼちゃプリンを試しに食べさせました。
するとぺろりと完食!
用意していた点滴はすべて中止になりました。
お嫁さんからはこんな言葉をいただきました。
「家に連れてきてよかったです。家だと本人が落ち着くのでしょうか?
家には不思議な力があるのですね」
低酸素脳症で生まれてからずっと病院で治療してきたDちゃん。
一度もNICUから出たことがありません。
Dちゃんの家族の願いは「一緒に家に帰りたい」でした。
「親子で一緒に家にいたい」
「親子でクリスマスを一緒に過ごしたい」
「他の家族のように子どもを連れてディズニーランドに行きたい」
なぜ私たち家族にはそれができないの?
病院のスタッフからは、
「家で診てくれる医者が必要です」と言われ岐阜市内の小児科すべてあたりました。
でも全部ダメでした。そこで出会ったのがシティ・タワー診療所。
「先生が診てくれるとこの子は家に帰れます」
と伝えられました。
最初は小児科専門医ではないから迷っていましたが、その想いを聞いて、
「わかりました。やります」と答えました。
そして始まった小児在宅。
退院前に病院に何度も出向き研修し、病院スタッフ、ご家族との信頼関係を築き上げました。
在宅診療開始して半年、12月にはクリスマスを家族でお家で過ごせました。
今年の4月には念願のディズニーランドに行けました。
お母さんの言葉「ずっと耐えてきてよかった。念願が叶いました。また次も行きたい」
Creが5を超えたある日、本人と家族に説明しました。
「もう1週間しか生きられません」
Eさんは
「教えてもらって心が晴れやかになりました」
「これから1週間一生懸命生きます」
「先生、次回の往診までに『泣ける映画』を選んできてね。それを見て思いっきり泣きたいな」
それから6日間
Eさんはご自宅で、最期の晩餐を3回しました。家族全員でにぎやかに過ごしました。
「こんなに毎日家族と話ができるなんて、私は幸せです」
往診時、泣ける映画を選んでEさんに紹介しました。
Eさん「先生が選ぶ映画は、まだ甘いね。大人の味が足りないな」
「私の人生満足」と言ったあとAさんは
「でも、一つ後悔があります」
「それは先生に出会うのが遅すぎたこと。
もう少しの間、患者の前で泣きながら診察するシマチャン先生の患者でいたかった」
ある日の夕方、病院から電話がありました。
「4歳の男の子です。白血病末期です。白血球300、血小板5000。でも家に帰りたいです」
病院の医師からは「輸血ができれば家に帰れます」と言われました。
そしてその時こう言いました。
「この子の希望はびっくりドンキーのハンバーグを食べることです。
そのために協力してもらいたい」
「ハンバーグが食べたい」
ただその希望のために、在宅輸血を決心しました。
輸血のない日に、びっくりドンキーに行ってハンバーグを食べました。
たった2口だけしか食べられませんが、満足でした。
そして32日後、診察の時
「今日何が食べたい?」と聞くと
「ドンキーのハンバーグ」と嬉しそうに答えました。
それが最期の言葉でした。
それから一年後お母さんが診療所に来ました。
「先生のおかげで最期の1カ月大好きなハンバーグを何度も食べることができました。
今も命日にはびっくりドンキーでハンバーグを食べます。つらくて涙が出てきますが、ハンバーグを見ると子どもの嬉しそうな顔が思い出されます」
年末に病状が悪化しました。
その時患者さんが言いました。
「我が家特製のお雑煮を食べたい。それで後悔なく旅立てる」
リハビリスタッフは頑張りました。
お雑煮の硬さ、具の大きさを奥さんと一緒に考えました。
食べるための姿勢つくりに没頭しました。
そしてお正月、
意識が朦朧とする中、特製お雑煮が出るとハッと目を開きました。
「おいしい。これで満足」
お茶碗一杯食べました。
そしてその2日後に苦痛なく旅立たれました。
奥さん、娘さんには悲しみと一緒に満足した涙が流れました。
若い夫婦の看取りでした。
結婚して10年、玄関に結婚式の写真が飾ってあり、夫婦愛にあふれていました。
夫・Hさんの残された時間は短い。その中で、医療サポートが必要でしたが、
在宅医療が始まってから、
「今の方が、本人らしいです」
奥さんの一言で、薬は使わないことにしました。
後悔のない看取りにしたい。
本人にとって、奥さんにとって「いい看取り」とはなんだろう?と考えました
訪問診療の時には、Hさんの友人が大勢お見舞いに来てくれました。
そこで、「そうだ、友人たちの力を借りよう」と思いました。
友人のお店にみんなで集まって楽しく過ごそう。
にぎやかなことが大好きなHさんにとって、これが本人らしい生活だと思い、
奥さんも我々も本気で計画しました。
しかし、計画実行当日、息を引き取りました。
奥さん、前を向けるかな・・・
とても気丈に振舞っていた奥さん。残された人生、とても心配でした。
そして半年後、奇跡は起きました。
計画した友人のお店で、偶然にも奥さんに会えました。
「これもHさんのおかげだね」とみんなで乾杯しました。
すでに奥さんは、前を向いて歩き始めていました。
その顔を見ることができて、本当に嬉しかった。
「いい看取りは、残された人の人生を支える。病気に対して医学的に何もできなくても、人としてできることがたくさんあるんだ!」と感じました。
【昇天されて半年後、研修医の言葉】
・医師として「治す医療」も大切。でも治せなくなった時の医療もとても大切だとよく分かった。
・本人、家族の最期の願いを叶えようとする人がたくさんいることがわかった。
【昇天されて半年後、友人の言葉】
・よい時間だった。
・いい先生に巡り合えて良かった、先生は人をみていた。
・Hさんらしい最期だった。
・僕はまた日常を支える仕事を淡々としていきたい。
【昇天されて半年後、奥さんの言葉】
・自宅に帰れて良かったです。
・本人も「人生に悔いなし」と言ってくれました。
・まだ寂しいけど友達に支えられながら生きていきます。
ある朝病院から電話がかかってきました。
「0歳の子で、もう数日しか生きられません。
引き受けてもらえますか?」
ご家族の希望は「家で暮らしたい」
時間もなかったため、2日後退院となりました。
退院したその日、往診しました。病院の看護師が家まで一緒に来てくれました。
そこで退院カンファレンスと、自宅に帰ってきた記念撮影をしました。
それから1年、
入院することなく、元気に家で育ちました
家族の深い愛情に包まれながら暮らしていました。
ある日往診に行くと、Iちゃんのお姉ちゃんが友達と一緒に女子会をしていました。
Iちゃんのことを友達と一緒にかわいがってくれました。
でもお姉ちゃんはIちゃんが退院してから一度も家族で出かけたことがありませんでした。
1年半後、初めて緊急入院しました。
搬送する時、お姉ちゃんが泣いていました。
それをみて、私(先生)も泣いてしまいました。
不安なんだろう、これまでいっぱい我慢したんだろう。
救急隊の人は最初1人しか救急車に乗れないといっていましたが、
それをみて、親子3人で救急車に乗ることを許してくれました。
緊急入院後の退院カンファレンスの時、
在宅の先生から何かありますか?という質問にこう答えました
「Iちゃん家族がUSJに行きたいといっていた。ぜひ行かせてあげたい」
病院の医師も「絶対に行きましょう」と言ってくれました。
しかし、その後、肺炎を繰り返しました。毎月入院しました。
そしてついに「気管切開」の話がでました。
手術前に、私に2人から「手術をした方がいいですか?」という質問がきました。
1人目はお父さん。
2人目は病院主治医でした。
私たち地域の人に意見を聴いてくれました。
手術は無事成功し、退院。気道確保が安定し、入退院を繰り返さなくなりました。
たまに外出できるようになりました。
しばらくした後、Iちゃん家族からお土産をもらいました。
それはUSJのお土産でした。
嬉しすぎて、涙を流しながら食べました。こんなに嬉しいお土産は初めてでした。
退院後8カ月で、ついに目標のUSJに行くことができたそう。
最初の入院から1年半待ちに待った旅行でした。
元気に育っていたIちゃん。退院してから3年7カ月後、突然のお別れがきました。
お別れの診察の時、退院した時と同じソファーで、家族のみなさんと写真を撮りました。
お姉ちゃんの顔は涙とともに、笑顔でした。
葬儀の時、お姉ちゃんはこう言いました。
「私はIちゃんが大好きです。私は将来、Iちゃんのように病気がありながら
家で暮らす子どものために訪問看護師になりたいです」
お父さんはこう言いました。
「手のかかる子だったんだよな~、お風呂とかのお世話が無くなるのが寂しいな」
そしてお手紙を診療所にいただきました。
「こう思えるようになるまでたくさんの苦悩と葛藤がありました。
けれどそこで一番つらかった時期をはいつくばって乗り越えられたのは
妻、お姉ちゃん、病院・在宅スタッフのおかげです。
Iにはお姉ちゃんがいます。二人の子育てはまるで違うように見えて実はほとんど同じでした。
Iは顔を真っ赤にして呼んでくれます。一生懸命自分の気持ちを訴えてくれる、その方法が違うだけ。それのどこに悲しむ必要があったのだろう。
伝えたいことは沢山ありますが、一番伝えたかったのは、介護ではなく育児、医療的ケア児ではなく、ただの娘なんです。
3年9カ月前、障がいという言葉で人生を悲観することしかできませんでした。
大変かどうかと聞かれたら、間違いなくYesです。しかしそれ以上に幸せや喜びがありました。私たち家族は娘を介護しているつもりは1ミリもありません。
ただ単に娘を育てているだけでした」
私は子どものころ、家族で近鉄特急に乗って伊勢志摩へ旅行に行きました。
桑名を過ぎたあたりでしょうか、
売り子さんが来るとお父さんがアイスクリームを買ってくれました。
その時食べたアイスクリームは、今でも楽しい思い出として脳裏に焼き付いております。
家族での伊勢志摩旅行という大切な思い出の一部に刷り込まれた、
近鉄特急のアイスクリーム。
そして近鉄特急に乗ったことが30年以上たった今でも心に残っているのです。
このように、思い出はふとした時に、その人の人生を彩ります。
「患者さんはどう暮らしたいのだろう?」
「何が嬉しいのだろう?」
「家族にとってほっとする瞬間はなんだろう?」
まさに近鉄特急に乗る少年が心躍るものはなんだろう?という視点を常に持ち、
その少年にとってのアイスクリームを提供できるような医療を目指しております。
そのような在宅医療がいい思い出となり、
残された家族にとっていい思い出が生き続けることができたら…
私たちが在宅医療で、病気そのものではなく「人をみる」意味は、ここにあるのです。
シティ・タワー診療所 島崎医師